市場調査の報告書で、一度だけ、クライアントにグラフの起点を直されたことがある。売上の推移を、五年前を起点に描いた。右肩上がりの、気持ちのいい線だった。クライアントは黙ってそれを見て、「三年前からで描き直してください」と言った。描き直すと、線は横ばいになり、直近は下がっていた。同じ数字だ。一つも変えていない。起点を二年ずらしただけで、成長の物語が、停滞の物語に変わった。
時系列のデータには、この罠が必ず潜んでいる。今日は、起点をどこに置くかで同じ線がどう化けるかを、公表統計で実際にやってみせたい。そして、報告書を作る側と読む側が、それぞれどこを確かめればいいかを書く。
同じ数字で、上がる線と下がる線を描く
材料は、厚生労働省の有効求人倍率の年平均だ。2020年が1.18倍、2023年が1.31倍、2025年が1.22倍。この三つの値だけで、二本の正反対の線が描ける。2020年を起点にすると、1.18から1.22へ、五年で0.04ポイントの上昇だ。「コロナ禍の底から回復した」という物語になる。2023年を起点にすると、1.31から1.22へ、二年で0.09ポイントの低下だ。「人手不足は峠を越え、求人は細り始めた」という物語になる。
どちらの物語も、数字の上では正しい。嘘はどこにもない。だが、読み手に残る印象は正反対だ。起点を選んだ瞬間に、線の向きが決まり、向きが決まれば物語が決まる。グラフは、数字を見せているようでいて、起点を選んだ人の物語を見せている。
起点が選ばれる三つの理由
では、起点はどう選ばれているのか。観察していると、理由は三つに分かれる。ひとつは、データが始まる年だ。これは最も無難だが、系列の始まりが偶然の底や山だと、そこからの線は偶然に引きずられる。ふたつは、きりのいい年だ。五年前、十年前。一見中立だが、五年前がたまたま異常値の年なら、線は歪む。コロナ禍の2020年を起点にしたグラフが、どれも鮮やかな回復を描くのは、このためだ。三つは、話したい結論に合う年だ。成長を見せたいなら底から、危機を見せたいなら山から。これは意図的で、しかも見抜きにくい。
私がクライアントに直されたあのグラフは、三つ目だった。意図したつもりはなかったが、五年前を選んだ理由を問われれば、「線がきれいだったから」としか答えられなかった。起点に理由がないグラフは、作った人の無意識の物語を運んでいる。
作る側の作法、読む側の作法
作る側の作法は、二つある。起点を選んだ理由を、グラフのそばに一言書く。そして可能なら、起点の違う二本を並べる。一本で語れる物語を、あえて二本で相対化する。読み手の信頼は、きれいな一本より、正直な二本のほうに集まる。
読む側の作法は、一つだけだ。線の向きを見る前に、横軸の左端を見る。その年は、何の年か。底か、山か、きりのいい数字か。左端の年に特別な事情があるなら、その線の向きは、事情の裏返しにすぎない。線を信じる前に、左端を疑う。それだけで、起点の罠の大半は避けられる。
起点の罠には、親戚が二つある。ひとつは指数化だ。ある年を100として推移を描くと、その年が起点になり、しかも「100」という数字が基準らしい顔をする。基準年が偶然の底なら、以後の指数はすべて立派に見える。もうひとつは、期間の長さだ。同じ系列を、十年で描けば上昇、三年で描けば横ばい、一年で描けば下落、ということが普通に起きる。どの長さで描くかは、起点をどこに置くかと同じ選択で、同じ物語を運ぶ。グラフを見るときは、左端の年だけでなく、左端から右端までの長さが、なぜその長さなのかも、一度は問うておく。長さに理由がないグラフは、起点に理由がないグラフと同じだ。
起点を疑う癖は、統計だけでなく、社内の報告にも効く。「前年比で大きく伸びた」という報告を聞いたら、前年が何の年だったかを聞く。前年が異常に低ければ、伸びは回復であって成長ではない。「三年連続で減少」と聞いたら、三年前が何の年だったかを聞く。三年前が異常な山なら、減少は正常化であって衰退ではない。起点の年に名前をつけるだけで、報告の物語は、作った人の物語から、数字の物語に戻る。
AIが描く線の、左端を見る
AIにデータを渡して「推移をグラフにして」と頼むと、たいていデータの始まりが起点になる。AIが意図を持っているわけではなく、指示がなければ最初から描くのが自然だからだ。だがその「自然」な起点が、底や山であることは珍しくない。AIの描いた線を受け取ったら、作る側の作法をこちらが補う。起点を変えて、もう一本描かせる。二本が同じ向きなら、その向きは信じていい。逆を向いたら、その線は、起点の選び方が語っているだけだ。
クライアントに直されたあの日、私は少し恥ずかしかったが、いまは感謝している。「三年前からで描き直して」の一言は、グラフの読み方の、いちばん大事な作法を教えてくれた。同じ線が、起点で上がりも下がりもする。だから、線より先に、左端を見る。
アイキャッチ画像はAI生成です。
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