東京に引っ越したとき、最初に驚いたのは家賃の額ではなかった。同じ家賃で借りられる部屋が、前に住んでいた町の半分ほどしかなかったことだ。家賃の数字そのものは、覚悟していたぶん驚かない。驚いたのは、その数字で手に入る広さのほうだった。あの日以来、「東京は家賃が高い」という言い方に、私は少し引っかかりを覚えている。高いのは家賃ではない。同じお金で買える空間が、狭いのだ。
今日はこの引っかかりを、公的な数字で確かめてみたい。東京の「物価が高い」を、家賃のところまで分解して見ると、統計の数字と、暮らしの体感が、なぜずれるのかが見えてくる。
統計の「住居費」は、驚くほど小さい
総務省の家計調査をもとに東京都がまとめた令和6年の数字で、東京の世帯の消費支出は月に341,594円。全国平均が300,243円だから1.14倍だ。費目別に見ると、教育が全国の1.66倍、住居が1.38倍、教養娯楽が1.33倍、食料が1.16倍。逆に交通・通信は0.91倍で全国を下回る。車を持たずに済む土地ならではの数字だ。
ここで、住居の金額そのものを見てほしい。東京で月25,012円、全国で18,074円。東京で家を借りたことのある人なら、この数字に首をかしげるはずだ。2万5千円で借りられる部屋など、都心にはない。種明かしは単純で、この「住居」は持ち家の世帯も含めた全世帯の平均だからだ。家賃を払っていない持ち家の世帯が平均を大きく引き下げる。統計の住居費は、借りている人の家賃の実感を表す数字ではない。
「高い」の正体は、単価ではなく広さだ
では、借りている人の体感に近づけるには、どう見ればいいか。家賃を「月にいくら」ではなく、「その金額で何平米が手に入るか」で見ることだ。家賃そのものは、住む人が自分の予算に合わせて決める。月8万円と決めた人は、東京でも地方でも8万円の部屋を探す。違うのは、その8万円で手に入る広さと、駅からの距離と、築年数だ。同じ予算なら、東京では部屋が狭くなり、駅から遠くなり、建物が古くなる。支払う額は同じでも、買えているものが違う。私が引っ越しで感じた「半分になった」は、まさにこれだった。
つまり東京の住居費の「高さ」は、家賃の単価というより、面積あたりの単価で見て初めて正確に現れる。そしてこの見方をすると、「家賃が高いから東京は住みにくい」という言い方が、半分ずれていることも分かる。多くの人は家賃の額を上げるのではなく、広さを削って東京に住んでいる。高い家賃を払っているのではなく、狭い部屋で我慢している。統計の平均値には、この「我慢」が映らない。
もう一度、費目の倍率に戻ると、東京の家計で最も膨らんでいるのは、住居ではなく教育の1.66倍だ。塾、習い事、私立の学費。東京の世帯は、全国の1.66倍を教育に使っている。次が住居の1.38倍、教養娯楽の1.33倍。一方で交通・通信は0.91倍と、全国より少ない。電車で済む土地では、車の購入費も維持費も家計から消える。つまり東京の「高い」は、家賃という一点の話ではなく、家計の配分そのものが全国と違う話だ。住居と教育に厚く、車に薄い。この配分の違いを知らずに家賃だけを比べても、暮らしの高さは測れない。
そして、この配分は世帯によって大きく揺れる。持ち家で住宅ローンを払い終えた世帯と、子育て中の賃貸世帯では、同じ東京でも「高い」の体感がまるで違う。前者には東京は車のいらない便利な町で、後者には家賃と教育費が二重にのしかかる町だ。平均の家計は、この二つを足して二で割った、どちらでもない誰かの家計になっている。
物価指数でも、住居は特別扱いになっている
総務省の消費者物価地域差指数では、2024年の東京都が104.0、東京都区部が104.9で全国最高。最も低い鹿児島市は96.5だ。この指数には注釈がついていて、持ち家に住む人が「仮に家賃を払っていたら」という想定の家賃は含まれていない。つまり、持ち家を含めた住居の実態は、この総合指数にも映りきらない。東京と地方の差を測る物差しのうち、いちばん差の大きい住居のところが、統計の上ではいちばん測りにくい。東京の物価をめぐる議論がいつまでも噛み合わないのは、ここに原因の一つがある。
数字を見るときは、分母に「広さ」を置く
AIに「東京の家賃は高いか」と聞けば、平均家賃の比較を返してくるだろう。それは間違いではないが、暮らしの体感を説明しない。聞き方を変えて、「同じ予算で借りられる広さはどう違うか」と分母を置き直すと、答えは体感に寄ってくる。数字を読むとき、分子の金額だけでなく、分母に何を置くかを自分で決める。住居の話では、分母は広さだ。
東京は家賃が高い——この言い方を、私はもう使わない。東京は、同じ家賃で買える空間が狭い。そう言い換えると、統計の住居費が妙に小さいことも、引っ越しのあの日の驚きも、ひとつの線でつながる。高いのは数字ではなく、その数字の向こうで削られている広さのほうだ。
アイキャッチ画像はAI生成です。
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