全部、家で聴けるのに

私は昔、バンドで人前に立っていた時期がある。数十人の前で音を出すだけで、手が震えた。客席とステージのあいだに流れる、目に見えない電気のようなもの。あれを一度浴びると、忘れられない。だからコロナで全国のライブハウスから音が消えたとき、私は数字より先に、あの静けさのほうを想像して、うそ寒くなった。今日は、その現場が数字の上でどうなったかの話をする。ついでに、数字では捕まえきれないものの話も。

ぴあ総研が毎年、ライブ・エンタテインメント市場の規模を公表している。音楽と、演劇やミュージカルといったステージを合わせた、人が集まってチケットを買った総額だ。この数字が、ここ数年、乱高下した。

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八割が、一年で消えた

2019年、市場は6,295億円。伸び盛りだった。そこへコロナが来た。翌2020年、市場は1,106億円。前年比マイナス82.4%。八割以上が、一年で蒸発した。数字の落差としても異常だが、現場にいた人間には、もっと具体的だった。ツアーが飛び、ライブハウスが畳まれ、人が集まる催しは「不要不急」の筆頭に名指しされた。音楽は、生活に要らないのか。そう問われているようで、あの頃はきつかった。

ひとつ断っておくと、音楽そのものが聴かれなくなったわけではない。むしろ逆だ。家にこもった人々は、以前より配信で音楽を聴いた。再生数は、あの年も回っていた。それでも現場の売上が八割消えたのは、ライブが「聴くこと」ではなく「集まること」で成り立っていたからだ。聴くだけなら、家でできる。あの客席の一体感だけは、どうしても家では再生できなかった。

ライブ・エンタメ市場規模の推移(音楽+ステージ・億円)6,29520191,10620203,07220215,65120226,85720237,6052024前年比 −82.4%出典:ぴあ総研「ライブ・エンタテインメント市場」各年確定値(2024年は2025年6月発表の確定値)

戻ってきて、しかも超えた

ところが、だ。市場は2021年に3,072億円、2022年に5,651億円と這い上がり、2023年には6,857億円でコロナ前を抜いた。そして2024年、7,605億円。過去最高を、それも2割上回って更新した。音楽もステージも、そろって最高値だ。

2024年の内訳 ── 音楽もステージも過去最高(億円)音楽5,299ステージ2,306出典:ぴあ総研(2025年6月発表)。合計7,605億円は2019年比+20.8%で過去最高。

ここで立ち止まってほしい。いまは配信で、家にいながら世界中の音楽が聴ける時代だ。サブスクを開けば、ほぼ全ての曲が、ほぼ無料で流れてくる。合理だけで考えれば、現場は要らなくなっていい。全部、家で聴けるのだから。それなのに人は、わざわざ会場へ足を運び、以前より高いチケットを買い、以前より多く集まった。推し活という言葉が定着し、チケット単価が上がり、大型会場が埋まる。便利になったのに、不便な現場へ戻っていく。この逆流を、数字が映している。

見落としてはいけないのは、配信のほうも縮んでいないことだ。音楽配信の売上は、同じ時期に過去最高を更新し続けている。「家で聴く」と「現場に集まる」は、片方がもう片方を食う関係ではなかった。両方が、同時に伸びた。複製できる音源と、複製できない体験は、客を奪い合う代わりに、互いを太らせている。サブスクで好きになったアーティストの現場へ行き、現場で浴びた曲を家で聴き返す。入口が増えた分だけ、出口も増えた。代替ではなく、補完だったのだ。

複製できないものに、人は金を払う

ここに、AIの時代を考えるヒントがある。配信は、複製だ。同じ音源が、何百万台の端末で、寸分違わず再生される。複製できるものは、際限なく安くなる。行き着く先はゼロだ。生成AIが加わって、複製どころか、新しいそれらしいものまで無限に湧く時代になった。一方、ライブは複製できない。同じ日、同じ会場、同じ客席の熱は、二度と再現されない。その一回きりであることにこそ、人は財布を開いた。複製が易しくなるほど、複製できないものの値が上がる。ライブ市場の7,605億円は、その逆説を数字で見せている。

これは、音楽だけの話ではない。絵でも、文章でも、同じことが起きる。AIがいくらでも量産できるようになった分野ほど、「本人が、その場で、一度だけ」生み出したものの価値は、逆に際立っていく。誰でも似た絵を出せる時代だからこそ、作家が目の前で一枚を描く実演に、人が列をつくる。複製の海が広がるほど、複製できない岸辺が貴重になる。ライブは、その岸辺のいちばん分かりやすい例にすぎない。

私はAIを使って文章を書き、絵を出し、曲まで作る。複製できるものを無限に増やす側の道具だ。肯定して、毎日使っている。だからこそ、複製の山が高くなる時代に何が残るのかを、現場の数字は静かに教えてくれた。残るのは、その場にしかないものだ。

最後に、数える話をひとつ。この市場規模が数えているのは「集まって金を払った量」だ。だが、客席の一体感も、鳴りやまないアンコールも、終演後のあの高揚も、一円も数えられていない。AIは再生回数を数えるのは得意だが、その場の熱は数値化できない。数えられたものだけを見て「音楽は回復した」と言うのは、半分しか言っていないことになる。数字は輪郭を教えてくれる。中身までは教えてくれない。

次にライブへ行くとき、チケット代として払っているのは、音楽そのものへの対価ではない。それは配信でいつでも聴ける。払っているのは、複製できない一回、その場に居合わせるという体験への対価だ。全部、家で聴けるのに、それでも人は出かけていく。複製が氾濫する時代に、複製できないものが、いちばん高くつく。現場の値段とは、そういうことだ。

アイキャッチ画像はAI生成です。

次の成長に向けて、いま整えるべきことを。

AI、EC、マーケティング、採用、数値管理。
構想だけで終わらせず、実行できる体制へ。

まずは課題を整理してみるところから、スポルアップが実務目線で伴走します。

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この記事を書いた人

法務・財務・内部統制・情報セキュリティの実務を経て、AI時代の企業支援へ。バックオフィスの現場で見てきたことを、そのまま書いています。

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