手塚治虫は、ディズニーの模倣から始まった。
本人がそう言っている。初期の絵柄にはミッキーマウスの影響が色濃く残っている。それを指摘されることを、手塚は恥じていなかった。模倣から始めて、やがて誰にも真似できない独自の世界を作り上げた。それが手塚治虫だ。
ビートルズも同じだ。初期の録音を聴けば、チャック・ベリーやバディ・ホリーへの影響が明らかにわかる。アメリカのロックンロールを英国の若者が貪欲に吸収し、独自の化学反応を起こした。それがビートルズだ。
全てのクリエイティブは、模倣から始まる。これは例外ではなく、原則だ。
「学ぶ」と「盗む」の境界線
AIが既存の作品を学習して新しいものを生成することを、「盗用だ」と言う人がいる。その気持ちはわかる。でも人間のクリエイターも、先人の作品を「学習」して創作している。その行為を私たちは「影響を受ける」と呼んで、肯定的に評価してきた。
では「学ぶ」と「盗む」の境界はどこにあるのか。
法律的には、アイデアは保護されないが表現は保護される。手塚がディズニーの「丸い目のキャラクター」というアイデアを借りることは問題ない。でもミッキーマウスそのものを複製して売ることは問題になる。AIが特定の作品を丸ごとコピーして出力すれば、それは侵害だ。でも大量の作品から傾向を学習して新しいものを生成することは、人間が影響を受けて創作することと、構造的には似ている。
似ているが、同じではない、という意見もある。規模が違う。速度が違う。意図が違う。そこは認める。ただ、「AIだから盗用」という断定は、論理として粗い。
模倣から個性へ、という時間が消えた
AIと人間の模倣の、本質的な違いはここにあると思っている。
人間は模倣から個性への「昇華」に時間がかかる。手塚がディズニーから独自のスタイルを確立するまでに、何年もかかった。その時間の中で、技術が磨かれ、思想が育ち、失敗が積み重なる。その過程が、個性を生む。
AIにその時間はない。大量のデータから瞬時に「それらしいもの」を生成できる。でも「それらしいもの」は、個性ではない。少なくとも今の段階では。
だとすれば問題は、AIが模倣することではなく、その出力を個性として扱う人間の側にある。AIが量産する「それらしいもの」を、文脈なしに商業利用することへの批判は、的を射ている。AIを使う側のモラルの問題だ。
アングラがマスを凌駕した日
日本の話をする。
2000年代後半から2010年代前半、ニコニコ動画にはYouTubeより面白いコンテンツがあった。これは主観ではなく、当時を知る人間の多くが認める事実だ。コメントが画面を流れるあの独特の体験の中で、ボーカロイドを使った楽曲が大量に生まれた。作り手は匿名で、流通はアングラで、商業とは無縁だった。
その中に「ハチ」というボカロPがいた。独特の世界観を持ち、ニコニコの中で熱狂的な支持を集めた。そのハチが、やがて「米津玄師」として表舞台に出た。合成音声で培った音楽的な実験性と、人間の声を得た表現力が融合した。「Lemon」が2018年に発売され、ストリーミング再生回数の記録を次々と塗り替えた。
あの転換を目撃した人間として言う。人々が態度を変えたのは、議論に負けたからではない。良い音楽に負けたからだ。「合成音声は音楽じゃない」と言っていた人たちが、気づけばその出身者の楽曲を口ずさんでいた。アングラが、正面からマスを凌駕した瞬間だった。
AIクリエイティブも、同じ道をたどる可能性がある。「AIだから」という抵抗が溶けるとすれば、それは論争で勝つからではなく、圧倒的に良いものが出てきたときだ。
その日が来るかどうかは、まだわからない。でも来ないとも言えない。
次回は、「AI臭い」という言葉について書く。受け手として、その感覚がどこから来るのかを考えてみたい。
株式会社スポルアップ CFO 加藤
AI・経営・数字まわりのことを、思ったことをそのまま書いています。
