人事と給与の実務に関わっていた頃、地方から東京へ転勤する社員の手当を決める場面に何度か立ち会った。東京は物価が高いから手当を厚く、というのが社内の常識だった。だが実際に数字を当たってみると、「物価が高い」で説明できる分は、思ったより小さかった。高いのは物価というより、家賃と、暮らし方だった。あの経験から、私は「東京は給料が高いが物価も高いから同じだ」という言い方を、そのまま信じないようになった。
今日は、その言い方を公表統計で確かめる。東京の給料はどれだけ高く、そのうちどれだけが物価で消えるのか。最新の公表値どうしを並べて、単純な割り算をしてみる。
給料は1.23倍、物価は1.04倍
厚生労働省の令和7年の賃金構造基本統計調査で、一般労働者の月の賃金は、全国で340.6千円。東京都は418.3千円で、47都道府県の最高だ。割り算をすると、東京は全国の約1.23倍。二割強、高い。ちなみに全国の値を上回る都道府県は、東京、神奈川、愛知、大阪の四つしかなく、残りの43道府県は全国の値より下にいる。
一方、物価はどうか。総務省の消費者物価地域差指数で、2024年の東京都は104.0。全国を100としたとき、東京の物価水準は4%高い。二割の給料差に対して、物価差は4%。この二つを割ると、物価の違いを差し引いた実質の給料は、東京が全国の約1.18倍になる。二割高い給料のうち、物価で消えるのは5ポイントほど。残りの18%は、実質でも東京のほうが高い。
では、なぜ「東京は残らない」と感じるのか
計算の上では、東京の給料は物価を差し引いてもなお二割近く高い。それなのに、東京で働く人の多くは「稼いでいるのに残らない」と感じている。私が転勤者の手当を決めていたときの感触も、同じだった。数字と体感のずれは、どこから来るのか。
答えの大半は、物価指数に映らない場所にある。まず住居だ。東京の家計の住居費は全国の1.38倍だが、地域差指数の総合は、持ち家に住む人が仮に払うはずの家賃を含んでいない。つまり、東京の「高さ」の最大の要素が、物価の物差しから外れている。次に、暮らし方の違いだ。東京の家計の消費支出は全国の1.14倍で、教育や外食に厚い。これは物価が高いのではなく、使い方が違う。物価指数は「同じものを買ったらいくらか」を測る物差しで、「東京では何を買うことになるか」は測らない。同じものを買えば4%高い。だが東京では、同じものを買って暮らせない。
「物価が高い」と「暮らしが高い」を分ける
ここで、言葉を二つに分けておきたい。物価が高い、とは、同じ品物の値段が高いことだ。暮らしが高い、とは、その土地で普通に暮らすために必要な支出が大きいことだ。東京は、物価は4%しか高くない。だが暮らしは、家賃の形で、教育の形で、外食の形で、ずっと高い。給料の二割の差は、物価ではほとんど消えず、暮らしで消える。転勤者の手当を「物価の差」で計算すると足りなくなり、「暮らしの差」で計算すると実感に合う。あのときの私の違和感は、この二つの言葉を分けていなかったことから来ていた。
AIに「東京と地方の実質賃金の差」を聞けば、賃金を物価で割った、今日の計算と同じ答えが返ってくる。それは正しい。だがその答えは、物価指数が何を含み、何を含まないかを知らないまま受け取ると、「東京は実質でも二割近く高いのだから、みんな東京に住めば得だ」という結論に滑る。指数の外に家賃があり、暮らし方の違いがあることは、こちらが知っていて、付け足すしかない。道具は割り算を速くする。何を何で割るかと、割り切れなかった残りが何かを知るのは、こちらの仕事だ。
転勤手当の設計も、この二つの言葉を分けると、実感に合う形に直せる。物価の差で計算すれば4%にしかならず、誰も納得しない。暮らしの差で計算するなら、住居費の差——同じ広さを借りたときの家賃の差——と、通勤や教育の環境の違いを、別々の項目として積む。物価指数は「同じ物がいくらか」を測る物差しで、転勤者が直面するのは「同じ暮らしがいくらか」だからだ。物差しを取り違えた手当は、数字の上では正しく、生活の上では足りない。
この区別は、東京に限らず、地域間の比較にはいつでも効く。どこかの土地が「物価が高い」「安い」と言われたら、それが同じ物の値段の話か、その土地で暮らす費用の話かを、まず分ける。分けた瞬間に、議論の半分は噛み合い始める。
二割の差は、物価ではなく暮らしに吸われる
東京の給料は全国より二割高く、物価で消えるのはそのうち5ポイントほど。残りの18%は、統計の上では確かに手元に残る。そして、その残りの多くは、物価指数の外側——家賃と教育と外食——に静かに吸われていく。「東京は給料が高いが物価も高い」という常套句は、半分だけ正しい。高いのは物価ではなく、暮らしだ。
次に東京の給料の話を聞いたら、物価の差と暮らしの差を、一度分けて考えてみてほしい。分けた瞬間、「残らない」の正体が、物価ではなく自分の家賃と暮らし方だったことに、気づくはずだ。
アイキャッチ画像はAI生成です。
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